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文学とは何か──大江、川端、カミュらノーベル賞作家を読む

​日野 学

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「文学とは何か」――。この小論は、この疑問にできるだけわかりやすく答え、その答えをもとにノーベル文学賞作家の作品をよんでいくものです。
 

「文学とは何か」。私はこの質問に、「(言葉を連ねた)文章を使って人を感動させるもの」と答えます。よって、文章を使って人を感動させる作品が「文学作品」です。音楽は、音の組み合わせによって人を感動させるものです。絵画や写真は、画像で見る人を感動させます。また映画は、映像と音声で人を感動させるものといえます。このように芸術の核心は、人を「感動させること」にある、といえます。そして文学は、文章で読者を感動させるのです。

 

 感動させるとはどういうことでしょう。私たちは小説を読んでいて涙が出てくることがあります。ガーンと頭を打たれたように物事の本質に気づかされることもあります。このように人の心に深く働きかけ、これによって心が激しくゆさぶられることを感動と呼びたいと思います。

 

 芸術作品の中で、人を感動させる部分・箇所を私は「宝石」と呼んでいます。音楽の父といわれるバッハの音楽や、20世紀最大の作曲家といわれるビートルズの曲を聴くと、私たちは大きな感動に包まれます。彼らの曲にはいたるところに宝石がちりばめられています(注1)。写真家アンセル・アダムスの白黒写真は一つの大きな宝石です。キューブリックが監督した映画「2001年 宇宙の旅」も、数々の宝石に彩られています。
 

注1:『ネイチャー・ニューロサイエンス』2011年1月9日号は、音楽を聴いている最中に感動を感ずると脳から「快感物質」のドーパミンが分泌されるとの論文を掲載しました。音楽だけでなく文学や絵画に感動したときもドーパミンが分泌されるのかもしれません。そうだとすると芸術作品の中の「宝石」は、脳にドーパミンを分泌させる箇所ということになります。

 では、私たちに感動を与える文学作品を一つ挙げてみましょう。

 荒海や 佐渡に横たう 天の川

「荒海」「佐渡」「横たう」「天の川」というたった四つの単語と、12個の文字からなる文章によってつくられるこの松尾芭蕉の作品は、私たちに大きな感動を与えてくれます。黒い海が大きく波うち、岸辺ではドーンという波の音も聞こえるかもしれません。沖合には、これも黒く佐渡島が見えています。そしてその上に、幾千という星をちりばめた天の川がかかっているのです。

 

 この文章を読むことによって私たちには、荒海の映像、波の砕け散る音、天の川の光、海風の感触といったバーチャルな感覚が総動員され、私たちは感動に包まれるのです。この作品はすべてが光り輝く「宝石」です。

 

 ところで上の作品は普通、「俳句」と呼ばれます。五・七・五・七・七の文字で作られる歌は「短歌」とよばれますし、石川啄木の作品は「詩」と呼ばれます。大江健三郎の作品は「小説」と呼ばれます。私は俳句や短歌、詩、小説は、より大きな「文学」というジャンルのもとにあるグループと考えています。

 

 文学とは文章を使って人を感動させるものですが、この「天の川」の句を読んでもさっぱり感動しない人ももちろんいます。小学生ぐらいではまだ体験が少なく、感動もあまりないかもしれません。また国によっては「sadogasima」の意味が分からず、感動できない人もいるでしょう。将来の日本人は、佐渡島にたくさんの明かりがついているため、天の川がほとんど見えないという人も出てくるかもしれません。このように文学は、その人、その年齢、その地域・時代によって、感動を生む文学作品ではなくなってしまうこともあります。

 

 文学作品の中で人を感動させる部分である「宝石」も、どの部分が「宝石」になるかは人によって異なることもあります。また、同じ文学作品を数年後に読み返し、前回気づかなかった「宝石」を発見することも多々あります。

 

 よって文学の本質は、その作品に内在されている「何か」ではなく、また私たちが勝手に決めつけてこしらえるものでもありません。文学とは作品と、それを読む私たちとの間の「関係」の中に生まれるといえます(注2)。ですからある作品は、ある人にとっては文学作品となりえますが、別の人にとってはそうはならないわけです。

注2:この「関係」とは、文学作品を読み、それに感動して私たちの脳からドーパミンが分泌される「関係」です。

 私たちに感動を与えてくれる文学作品は歴史に残ります。1600年代後半に活躍した松尾芭蕉の作品が400年以上読まれ続けているように、大江健三郎の作品も今後も多くの人に読まれていくでしょう。多くの人に感動を与える作品は、時代を超えて生き続けて「古典」となるのです。

 

『カフカ』(岩波書店)を書いたリッチー・ロバートソンは「古典となりうる作品とは、…いかなる角度からの新しい読みにも、新鮮な相貌を見せることができるものにほかならない」(31~32頁)と述べています。「いかなる角度からの新しい読みにも、新鮮な相貌を見せ」、感動を与えてくれる作品こそが古典となるのです。

 

 また映画監督のスタンリー・キューブリックは、「優れた音楽は1度聴くだけでは十分ではない。美しい絵や偉大な書物にしても同じことだ」(『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』、314頁)と述べていますが、筆者も下で紹介したノーベル賞文学などを何度も読んでいます。おそらく『罪と罰』は5~6回は読んだと思います。

 

 以上をまとめると文学作品とは、①私たちに多くの感動を与えてくれるものであり、②何度も読みたい魅力があり、③人類の歴史に残っていくもの、といえると思います。

 

■ ノーベル文学賞作家の作品を読む

 文学作品を読むこと、音楽を聴くこと、絵画を見ること、映画を鑑賞することを私は、玉石混交の箱の中から石を1個1個取り出していく作業のようなものと考えています。箱の中から全部石を取りだしたが、すべて石ころだけだった、ということもあります。逆に、取り出した石の多くが輝く「宝石」だったということもあります。ノーベル文学賞受賞作家の作品には、宝石が散りばめられています。次からは、それらの宝石などをたどりながら、受賞作家たちの作品などを実際に読んでいきます(注3)。

注3:以下のノーベル文学賞受賞者作品、および「その他の「宝石」作品」については、これまでに多数の評論が書かれて来ました。これらの評論の多くは、作品を読んで論評者が感じたこと、考えたことを実に様々な角度から述べたもので、オリジナル作品を読むに当たって非常に参考になるものです。私の場合はそれらとは少し違い、オリジナル作品に「書いてある事=宝石など」を一つひとつたどっていくものです。オリジナル作品を未読の方、あるいは読み始めたが途中で投げ出してしまった方にとっては、作品全体の概要を知るのに役立てれば幸いです。

■ 大江健三郎 ─1994年受賞

 ・不満足
 ・個人的な体験

 ・万延元年のフットボール

 

■ 川端康成 ─1968年受賞

 ・雪国
 ・みずうみ

 

■ アレクサンドル・ソルジェニーツィン ─1970年受賞

 ・イワン・デニーソヴィチの1日
 ・ガン病棟

 

■ アルベール・カミュ ─1957年受賞

 ・ペスト

 

■ ジョン・クッツェー ─2003年受賞

 ・鉄の時代

 

■パール・ラーゲルクヴィスト ―1951年受賞

 ・巫女

 

■ボブ・ディラン(歌詞) ―2016年受賞

 ・ボブ・ディラン、フリーホィーリン・ボブ・ディラン

 


 

● その他の「宝石」作品

●フランツ・カフカ

 ・審判

  〇付録:『カフカとの対話』、グスタフ・ヤノーホ

 

●フョードル・ドストエフスキー

 ・罪と罰

 

●夏川草介

 ・臨床の砦

 

●開高健

 ・輝ける闇

 

●芥川龍之介

 ・歯車

 

●深沢七郎

 ・楢山節考

 

●黒田三郎(詩)

 ・ひとりの女に、渇いた心、小さなユリと

 

●上林猷夫(詩)

 ・機械と女

​​●グレン・グリーンウォルド(ノンフィクション)

​ ・エドワード・スノーデンの『暴露』

●吾峠呼世晴(漫画)

​ ・鬼滅の刃

♦小さな詩/日野 学

その一

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